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ウクライナ調査活動の報告(9月15~20日)
2018年10月11日

ウクライナ調査活動報告

報告が遅れまして申し訳ありません。先月の15~20日にウクライナを訪問し、各地域の医療施設やチェルノブイリ原子力発電所事故の被害者を対象とした保養所、汚染地域に暮らす人々のもとを訪れお話を伺ってきました。今回はいつもと違い、取材・調査をメインの目的とし、ジトーミル、オブルチ、ナロジチの3か所を訪れました。ジトーミルとオブルチにはチェフコが支援している施設があり、いつも訪れていますがナロジチの訪問は初めてでした。話に聞いているだけでなく実際に行ってインタビューをし、地元の人の生活を見ることができとても意義のある訪問にできたと思います。また、昨年と今年、それぞれ日本に来たウクライナの子どもたちに集まってもらい、一緒に現地マスコミの取材を受けてきました。
以下、簡単にではありますが調査内容の報告とさせていただきます。

<サナトリウム―保養所―>
キエフ郊外とジトーミル市内にある2つのサナトリウムを訪れ、お話を伺いました。サナトリウムとは日本でいう保養所のような施設で、ウクライナでは治療は病院、リハビリはサナトリウムという役割分担があります。チェルノブイリ原発事故後はリクビダートル(チェルノブイリ事故処理者)やその子どもの保養をメインにしているところも多く、さまざまな保養プログラムが用意されています。最近では血圧や頭痛、肥満の問題、また戦争に参加した兵士の精神的ダメージが増えているといいます。プログラムは薬療法に加えて泥やハーブ、アロマなどを使用する治療法や温熱療法、水圧マッサージ、医師の指導管理のもとジムでの運動を取り入れています。

 

                                    キエフ郊外のカピタニヴカ・サナトリウム        水泳による保養プログラム

 

 

 

 

   

保養中の子どもたち             医師の指導によるジム運動

 

 

現在では政府の予算で薬代、食費、光熱費、人件費は賄われているものの、施設を運営するには足りずイベントホールや大会議場を有料で貸し出すなどして自力で稼いでいます。また、現在人材や設備の不足も深刻で課題は山積みです。

 

 

<ナロジチ>

今回初めて訪れたナロジチ地区は、現在「第2ゾーン」と位置づけられていて居住や労働が制限されています。よって自営業や国が運営する施設以外での仕事はありませんが、同自治体は税収を確保するために工場など仕事場ができることを望んでいます。ちなみに、元々現地に住んでいる人は就労を認められていることや国が労働を制限しているにも関わらず、ナロジチ内にある病院や学校には国から予算が出ていることなど、矛盾を感じることも多かったです。

 

    

ナロジチの幼稚園の園庭と通う園児たち

 

 

 

 

ナロジチの学校と通う生徒たち

 

 

 

また、実際にナロジチ地区内の放射能は高くなく、関係者の話では現段階のナロジチを調査すれば「第3ゾーン」にグレードダウンする可能性が高いといいます。実際に私たちが測ったときも最大で0.27μSv/hでした。

 

「第3ゾーン」になれば政府にとっても保障を与える必要がなくなったり工場や企業の誘致を可能にして税収を増やしたりすることもできますが、「第2ゾーン」を「第3ゾーン」に改変するにはさまざまな調査が必要となり、経済的に余裕がないため実施できていません。よってナロジチは現在に至るまで「第2ゾーン」です。また、現地の住民も保障が受けられなくなるので現状維持を望む声が大きいです。

 

 

 

<汚染地域に住み続ける住民たち>

汚染地域のリッチマネ、ジェルバの2つの村にお邪魔しました。実際ジェルバにはもう人が住んでおらず、建物も全て荒れ果てた状況でした。リッチマネではチェルノブイリ事故前から現在に至るまでこの村に住み続けている6人にお話を伺いました。ほとんどが一人暮らしで、子どもや孫がいるが違う町に住んでいたり病気で亡くしたりしています。

 

話を聞かせてくれた住民の方々

 

 

 

 

 

汚染エリアに住む子どもたち。近くには学校も1つある

 

 

事故前は80世帯ほどの村でしたが、今は数えるほどの村民しか残っていません。村を出て行った人の中には避難先で「チェルノブイリ人」と呼ばれ、いじめられたと言いますが、一方で、事故後キエフなどの町から静かな暮らしを好んだり信仰心が篤かったりする人々が移住しています。住民は自給自足の生活をしており、放射能が蓄積されやすいと言われるキノコやベリーも口にしていますが長生きしている人も多く、お話を伺った方の半分は80代でした。逆に避難した元村民は既に皆亡くなってしまったと言います。彼らはもう一度同じ事故が起きたとしてもリッチマネに住み続けると答えました。「それにどこにいても放射能はある。キエフにだってある」「人は生まれた場所に住み続けるべき。何が起きても離れてはいけない」。そう考えています。

今回は時間の都合上訪れられませんでしたが、3㎞ほど離れたところにはたった2人だけの村があります。

―人が健康的に生き続けるには何が必要か、何を避けるべきか―。ウクライナでも福島でも問われ続ける課題の複雑さを改めて感じました。

 

   

自給自足でくらすバラノウスキ夫妻

   

家の中の様子

 

<ジェルバ村>

リッチマネとは違い、ジェルバには現在人は誰も住んでおらず廃墟や廃屋のみが残されている状態でした。町の中心にあったと思われる鮮やかな青色の教会、商店や学校、村役場が残されていたが木造の建物のため朽ちていたり内部には瓦礫の山が築かれたりしていました。役場で管理していた資料らしきメモ用紙やガスマスクなど人が暮らしていた気配が感じられるものもいくつか見つかった。ジェルバにはいつまで人が住んでいたかは定かではないが、道路沿いにチェルノブイリ原発事故で被害に遭った人の名前を記した慰霊碑があったため少なくとも事故直後には人の出入りがあったと考えられる。このエリアの放射能の値は最高値で0.5μS/vでした。

    

荒れ果てた元商店                    今回の訪問で最高の0.5μ/Sv

 

 

    

 

放置されたガスマスク                   元村役場から出てきた牛の売買に関する書類

 

 

 

<マスコミ取材>

2017年にスタートした、ウクライナの子どもたちを福島県に招待する「交流プログラム」について現地のマスコミ各社が取材してくださいました!

昨年日本に来たジトーミル第12学校の子どもたちと先月日本を訪れたオブルチ第3学校の生徒たちが集まり、テレビ、ラジオ、新聞の取材に対して日本の印象や学んだこと、ウクライナで生かしたい事などを話しました。

 

      

 

ジトーミル市内の放送局                  ラジオの生放送出演

 

 

      

テレビ取材を受ける子どもたちとチェフコ職員

 

 

ジトーミル第12学校とオブルチ第3学校の生徒たちが顔を合わせるのは初めてでしたが、日本での経験やホームステイの思い出話に花を咲かせていました。

残念ながら全てウクライナ語で放映されたので直接理解はできませんが、チェフコの活動も紹介していただけたようです。

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